みやじまなおみ
母に抱かれている生後5~6カ月の私です。
家族構成は両親と3つ上の兄と私。この5年後に妹が生まれます。バックに写っているのは、この数カ月後に引っ越す予定のわが家。ただいま絶賛建築中であります!
両親にとっては初めてのマイホーム。何となく構造が弱そう? にも見えますが、これから長い時間を過ごす家族の基地が、家として確実に生き始めています。
ここは神奈川県横浜市。ではあるのですが、おしゃれな街で知られる横浜駅からは遠く離れた戸塚区。今は開発にともなって多少地形も変わっているかもしれませんが、当時は起伏の激しい谷部が多く、まわりを見渡せば、田んぼ、畑、山、森……かなり野趣満点な土地柄でした。
写真ではわかりにくいけれど、家のまわりも坂道だらけ。この家の前もかなりきつい坂道で、わが家はその真ん中ぐらいにありました。昭和40年にさしかかる頃、この辺り一帯に住宅がポツポツ建ち始め、いつの間にか同じ年頃の子どもを持つ家族が増えて、一気ににぎやかな町になったのです。
同じ坂に住む母親たちの仲のよさは、そのまま子どもたちのつながりも深め、みんな兄弟、姉妹のような仲のよさ! 幼稚園に上がるまでは、毎日どこかの家が寄り合い所、兼、保育所になっていたようです。
母親たちにとってはおしゃべりが最大の娯楽。幼稚園から帰って、家に母親がいないときも、順番に一軒一軒まわっていけば、必ずどこかのお宅にいましたし、母親が見つかれば、自分もおやつをもらって、その家の子どもと一緒に遊ぶといった具合で、親子で遊び相手には事欠かなかったですね。
近くに公園なんかなかったけれど、親の目が届くところにいくらでも遊び場があり、腕をぐるぐる回しながら坂道を駆け下りるだけで子どもとしてはかなりスピード感を味わえましたし、坂の上と下にある空き地でけんけんぱをしたり、ケイドロ、かくれんぼ、めんこ、酒蓋(さけぶた=当時、男の子の間でものすごく流行っていました)、竹馬、泥団子づくりなど、近所の子どもが集まっては、日が暮れるまで真剣に遊んでいました。
地面に描いたけんけんぱの○がだんだん見えなくなってきて、誰かのお母さんが「帰ってらっしゃ~い、ご飯よ~!」と呼びにくると、そろそろ解散の合図です。
あの頃は、そんなのどかなご近所風景が広がっていました。
みやじま・なおみ miyajima naomi 主婦ライター。有名人・著名人のインタビュー原稿を請負うほか、編集ライターとして40冊近い書籍の執筆に携わる。神奈川県横浜市の一戸建てで、家族5人、昭和40年代を過ごす。
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