アアルトの“第2の全盛期”を支えた婦人
関本 セイナッツァロ役場はスケール感がいいです。ヒューマンスケールで極力小さく作るみたいなところがあります。晩年の作品になってくるとやや巨大化しています。例えて言うならば、丹下健三さんの晩年のような感じです。組織事務所のようになってくるところですとか。
初期のパイミオのサナトリウムやマイレア邸はディテールをすべて手元に引き寄せて、事細かにすべてを考えているところがインタラクティブで見ていて楽しいです。ところが晩年になるに従って、それが薄れていきます。
これは組織が大きくなった時の宿命で、アアルトが自分でやっているというよりは、スタッフたちがアアルト的な作風をデベロップしていたのでしょう。それを壊したのが50代に入ってすぐの頃で、セイナッツァロの役場や夏の家など一連の系譜で、アアルトが再びクリエイティブなところに返り咲きました。
もう一つパラレルの話をすると、アアルトは夫人と二人三脚で考えるというところあります。第2の全盛期を支えたのは2番目の夫人です。
飯塚 2番目の夫人も建築関係の人ですか。
関本 そうです。アアルト事務所のスタッフです。エリッサ・アアルトで、歳が二回りぐらい離れています。だから50歳ぐらいの時に27歳ぐらいの人と結婚しています。最初の夫人アイノとも二人三脚で仕事をしていて、アイノだけで展覧会ができるぐらい才能がある人でした。
飯塚 関本さんから「晩年がダメ」という話を聞いて安心しました。フィンランディア・ホールなどを見て、平面は面白いけれど立面がつまらないなと思っていました。インテリアは面白いのですが。
関本 私も20代の頃に初めてヘルシンキに行った時に、本に「ヘルシンキのフィンランディア・ホールはアアルトの傑作です」と書いてあったので見に行きました。実際に見て、悪いとは思わなかったです。若かりし頃の私は「すごいな」と思いました。
しかし、確かに魂が震えるような建築ではなかったです。もし、あれだけを見て帰って来たとして、「アアルトどうだった?」と聞かれたら、「良かったよ」と涼しく言っていたと思います。しかし、アアルトの魂の震える建築はあれではない。アアルトがまだ若かった頃の作品と50代の頃の建築は、見ていて引き込まれます。
飯塚 内藤廣さんが「マイレア邸が分からない」「このフラットなロフトの家の何が面白いのだ」とおっしゃっていたとの話がありましたが。やはり体験してみないといけませんね(笑)
関本 内藤廣さんのあの本の下りで前後の話があります。内藤さんは海の博物館で学会賞を取られて、そこから右肩上がりで活躍を広げておられました。それまではどれだけ苦労をしてもコンペが一つも取れなかったにも関わらず、出すコンペのすべてが取れるようになった。それで逆にスランプに陥り、自分が何をやっているのかが分からなくなったそうです。その頃にフィンランドに行ったという話でした。「人は落ち込むと北に向かう」と話しています(笑)
ヘルシンキに滞在していた時、同伴していたスタッフに「マイレア邸を見たい」と言われて、内藤さんは「あれは見る価値がない」「プランを見たけれど何がいいのか全然分からない」「あれは私が設計の先生だったら間違いなく不合格だ」などと言っていたそうです。
ただ、翌日が休みだったため、スタッフの願いを叶えるために行ったそうです。そして、あの言葉が出てきます。「自分の不明を恥じた」「建築はその空間に置かなくては分からない」「音楽は写真に写らない」と。
もう一つ、ある講演会でおっしゃっていたのが、「“全力で開く”というのはこういうことだと私は初めて学んだ」ということです。「全力で開く」とは、おそらく「全開放の窓」のことだと思います。
「フィンランドのような気候で、中庭があるというだけで、あそこまでリスクを背負って窓を開けるのか」というニュアンスでしょう。そのぐらいアアルトにとってマイレア邸の中庭の空間は大きな存在でした。そこに建築のすべてを掛けて、「この窓は全開しなけなければ意味がないのだ」と言わんばかりに全力で窓を開ける。そういったところにとても衝撃を受けたとおっしゃっていました。
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