「伝統構法以外はやりません」。こう話すのは、杣耕社(岡山県岡山市)社長の山本耕平さん。自身を大工ではなく、“杣大工”だと自負する。地元の木材を採り、木の表情を読み解く。手刻みしながら、一貫して設計から施工まで担う―。地域工務店として、リスクを負ってでも、まっすぐに、やりたい建築をやり抜く。その強い覚悟と信念がある。
地域で頼りにされる杣大工として、何か困っている人がいれば「任せてよ」と手を差し伸べる。山本さんのような、いわゆる“町の棟梁的”な存在は令和時代に、稀有になったと言っても過言ではないだろう。
ただ、山本さんにとって、そうした大工のあり方は、情緒的な思いや信念といった類ではなく、「大工としてごく当たり前の姿」だと言い切る。
担任との出会いがターニングポイント
山本さんは高校卒業後、「やりたいことがなかった」といい、地元・岡山でバーテンダーや工場で働いたりしながら職を転々とする日々が続いた。
22歳の時。「腰を据えて取り組めることを学びたい」と職業訓練校の木工課の門を叩いた。同課は造作家具のイロハを学ぶことがメイン。「CDをジャケット買いするような感覚で、面白そうだったから木工課を受験した」と笑う。それがターニングポイントだった。
「木工課の担任が変わり者で、最初の1週間はひたすら刃物を研ぐための砥石を摺り合わせる作業だった。当時はなぜそれをやるのか理解していなかったが、担任は『道具を自分の身体の一部だと思いなさい。職人はそこからがスタートだ』と言われたことが印象に残っている」。
道具を仕立て、木材を加工し、組み立てる—。山本さんは、道具そのものに堰を切ったようにのめり込んだ。職業訓練校は1年の短期間。実践的な授業をしながらも、同時進行で卒業後の進路を考えていく必要がある。
山本さんは「機械化が進めば家具職人は淘汰される。長く手を動かしながらものづくりがしたい」と考えるように。そこで担任から進言されたのが宮大工への道だ。
卒業後、県内にある社寺仏閣の設計施工や改修を手がける新東住建工業(岡山市)に宮大工の見習いとして入社。新築や「ほかの工務店が匙を投げるような難易度の高い重要文化財の修復」など8年半にわたって手がけ、職人として確かな実力をつけた。
勢いそのままに独立
年季が明ける頃だった。他社との工法の違いにギャップを感じるようになったという。「日常業務として数百年前の古い建物を解体して直すことを当たり前に手がけ、伝統構法の優位性を実感していた。だが、一般的な家づくりは、それを逆行した形がスタンダードになっている」と振り返る。ならば、自分が設計から施工まで担えばいいのではないか―。そう考えていたタイミングで、・・・
この記事は新築ハウジング8月20日号6・7面(2023年8月20日発行)に掲載しています。
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