新建ハウジングの人気連載「最少人数で生き残る n(ナノ)工務店の経営術」。毎回、正社員3人程度(大工などの職人は除く)の最少人数で安定した受注を得ている工務店を取材し、経営手法や人気の秘密を探る。そこには縮小化する市場のなかで最適化を図るためのヒントが隠されているはずだ。
今回は45歳から本格的に家づくりに取り組み始めたオーガニックスタジオ栃木(栃木県壬生町)を紹介する。社長の田中武さんの多様な経験が家づくりの独自性につながり、手堅い支持を得ている。
田中さんは建築系の専門学校卒業後、20歳のときに大張間構造で知られるゼネコンに入社。鉄塔などの構造計算に従事した。働きやすい職場だったが、建築に関わりたいという思いが強くなり、入社から5年後に退職した。
小さな工務店で1年働いた後、林業会社を母体とする建設会社に就職。最初はプレカット部門に配属され、プレカット加工図を描いた。この仕事で田中さんは木造の軸組を学んだ。その後、田中さんは特建事業部に転属し、RC造や鉄骨造の豪邸などを担当するようになった。
現場の所長として物件に関わり、中堅ゼネコンが下請けに入っていた。若い田中さんが驚いたのが、中堅ゼネコンの現場監督の技能。意匠図に不備があってもスラスラと施工図を描いて納めていく。田中さんは現場事務所に入り浸って建築のイロハを学んだ。そして、業務の合間に一級建築士の資格も取った。
子供のアトピーで価値観が変わる
そんな田中さんに転機が訪れる。30歳のときに授かった子供がアトピーだったのだ。その原因の1つが、田中さんが設計した自邸で用いた建材であった。当時流行していたシナベニアの多用が災いした。当時はシックハウス騒動の前でホルムアルデヒドなどの悪影響は知られていなかった。田中さんは自分が設計した家が子供を傷付けたことにショックを受け、会社でも建物の仕様を見直すべきだと話した。だが田中さんの意見に同調する社員はいなかった。孤立感を覚えた田中さんは会社を辞めた。入社から5年が経っていた。
退職後、田中さんはフリーの立場で東京都内の小さな工務店の外注スタッフとして活動する。社長から案件を渡された後はプラン提案から引き渡しまで、すべて自己裁量で行う仕事だった。この仕事に3年間関わり、田中さんは工務店に求められるトータルの家づくりの技術を磨いた。
この仕事の後、田中さんは有限会社を立ち上げるが、取り組んだのは店舗内装の手伝いだった。インテリアデザイナーのラフな図面を実施図にまとめるのが主な仕事だった。この仕事を通じて、空間演出の手法や店舗内装の材料の知識を得た。
そんなときに田中さんは住宅フランチャイズ会社の社長と知り合う。その会社はパネル工法による高断熱高気密住宅を展開していた。田中さんは外部スタッフとしてパネル開発とともに傘下の工務店の施工指導を依頼された。そのうち営業手法も教えるようになった。自ら営業の蓄積を得るために、田中さんは自社の仕事の営業として折込チラシを手掛けて効果を測った。このときは手描きのチラシが受けて、1年間で約1億円を受注できた。
棟数を追うのをやめる
この仕事に関わるようになって8年が過ぎたころ、住宅フランチャイズ会社の社長が亡くなった。それを契機に田中さんは、工務店として家づくりを行うことを決意。2年間の準備期間を経て、45歳になった2007年に社名をオーガニックスタジオに変更し、ホームページも刷新した。そして住む人の健康に配慮した高断熱高気密住宅を訴求し始めた。
素材の面では新建材を使わずに自然素材で空間を構成する。木材などのトレーサビリティにもこだわり、電磁波にも配慮する。断熱性能はいわゆるQ1住宅を標準とした。
独立後の最初の課題は営業だ。これは折込チラシが有効だった。1回あたり5000~1万枚を新聞の折り込みで配布し、構造見学会と完成見学会を案内した。多いときはチラシから20組以上が見学会に参加した。そのほか地元のフリーペーパーの広告が有効に働いた。
飛躍のきっかけとなったのは、・・・・・【残り1215文字、写真13枚】
この記事は、新建ハウジング2020年3月20日号(8~9面)に掲載しています。
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