話す・放す・離す言葉の力
3・11から間もなく2カ月が過ぎようとしている。テレビもラジオも新聞も、延々と被災地の情報を伝えている。数え切れないほどの人が明日の生活も見えぬまま路頭に迷っているのは周知の通りである。
「がんばろう」「ひとつになろう」「必ず乗り越えられる」といった言葉がありとあらゆるメディアから放出され、画面に紙面に登場する被災者たちは、私たちに向かい「がんばります」と語りかける。しかし、私にはそれらが無理を重ねたつくり笑顔と、本音を語り得ない言葉の裏返しにしか見えてこない。
被災地では家も仕事も、家族までも失った人の大半がいまだ茫然自失の状態で、目の光さえ失せて見えた。子どもたちはやり場のない感情をごまかすように無邪気に遊び、微笑んではいる。が、瞳に不安の陰を見つけることは少しも難しくはない。
これだけ大量の情報が垂れ流されているにもかかわらず、私たちは被災者のほんとうの声を聞くことができずにいるのである。
「私は悲しい」という一言を発することは、実はとても難しい。しかし、誰かに向かって「悲しい」と話すことは、悲しい気持ちを抱えた自分を、ほんのいっときでも「放す」作用がある。
言葉にしたときに悲しいという気持ちが自分のなかで強く認識され、それを「離す」ことにもつながっていく。
言葉には、そういう力がある。
感情の芯のようなその一言を表現するのは、子どもたちのほうがずっと巧みだ。泣かずにがんばる、辛い自分から目をそらしてよろいを纏うのが強さではない。ほんとうの強さとは、辛いはずの自分、悲しい気持ちを抱えた自分をいったん目の前に解き放ち、その自分と向き合うことである。
先に紹介した子どもたちの詩は、そうした行為の大切さを改めて教えてくれる。そして、子どもたちの強さも。
多くの場合、被災された方々にとって、私たちの放つ言葉は無力である。だが、私たちは言葉によって捉え得る世界があることも知っている。こうした言葉のせめぎ合いのなかで営まれていくのが日常なのであり、少しでも哀しみを共有するための基盤となる。
あれが足りない、おまえたちの責任だとわめき立てる大人たちの怒号より、子どもたちの心の深くから発せられる「わたしはないています」「まなぐがぬけそうになる」といった言葉が、なぜ私たちの胸を鋭く突いてくるのかを、いま改めて考えたい。
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